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文学も大豊作!「文學の國いわて」道又 力著

2017年
7月11日(火)

岩手県・盛岡市出身の作家・久美沙織さんから、すごい本を紹介された。

文學の國いわて 明治 大正 昭和 平成 輝ける郷土の作家たち」 

 道又 力著 (岩手日報社)

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岩手日報朝刊で2013年1月から2016年9月まで3年9か月連載されていた記事をまとめた本。

http://www.iwate-np.co.jp/syakoku/book/bungakuiwate.htm

著者の道又力(みちまた つとむ)さんは「盛岡文士劇」の脚本を書かれている。

サブタイトルにもある通り、明治から平成まで岩手出身の文学者や岩手にゆかりの文学者たちの珍しいエピソードが、数々の引用をちりばめながら緩やかに連なって描かれていて、読みやすい。

例えば石川啄木、野村胡堂、金田一京助らが盛岡中学で出会うくだり。

(は著者。は引用。)

盛岡中学で最初に文学の面白さを啄木に吹き込んだのは、やはり海軍志望の及川古志郎である。日本一難しいと言われた海軍兵学校の試験を受け見事合格。中退して江田島へ行くことになった古志郎は、啄木の面倒を見てくれるよう胡堂に頼んだ。

 (及川から)紹介された石川啄木は、私より年が二つ三つ下であった。クラスは1年下、身體(しんたい)は私の半分くらいしか無い小柄の美少年で、クリクリとした意地悪さうな聡明な眼と、有名なおでこと大きな耳の持主であつた。私はすつかり先輩面になつて、ウンウン時々は僕のところへも遊びにきたまへ位のことは言つたかもしれない。  

                       (野村胡堂『面会謝絶』)

胡堂に誘われ、杜陵吟社の句会に顔を出したが、啄木の興味は短歌にあった。そこで古志郎は「金田一京助と交際したらどうか」と勧めた。俳句同様、短歌もまた革新の時代だった。明治和歌革新の牙城は、与謝野鉄幹率いる文学結社の新詩社。その機関誌「明星」に京介の歌が時折、掲載されていたのだ。

 明治34(1901)年1月のある日、啄木は京助の家を訪ねた。

 小さい人、可愛い人、ぐらいにしか思つていなかったその人の口から、「明星」を貸してくれまいか、という言葉を聞いた(中略)私は、「わかるのかしら、この人に?」と驚いた。

                    (金田一京助「石川啄木」)

 女性のように柔らかな声の持ち主である京介は、優しく啄木を迎え入れ、親切にもてなしたことだろう(同級の弓館小鰐は新聞記者らしい口の悪さで「チンポコのついた貴婦人」と京助を評している)。この時啄木十五歳。京助十八歳。

石川啄木と金田一京助の関係が、ずっと不思議だった。京介が(だらしない)啄木に何度もお金を貸してやったり、親切だったのはなぜか?二人の絆は、どの辺から生まれたのだろう?と。

でも、この最初の出会いのくだりを読んで、やっと腑に落ちた。

金田一京助は、もともと「短歌」の人だったのだ。石川啄木と出会い、人としても短歌の才能においても、初めて会った時にその魅力の虜になったのではないか。そして自分は「短歌」から身を引き、啄木に全て託したのではないか。この才能を花開かせなければ、という使命感のようなものが、京介にはあったのではないか。

宮沢賢治の晩年のセールスマン時代に標準を合わせたくだりも興味深い。

「柳田國男」の「遠野物語」誕生を助けた佐々木喜善にも光が当たっている。

昭和になると、高橋克彦 三好京三 常盤新平(「遠いアメリカ」) 

など有名作家はもちろん女性作家も続々と輩出している。

岩手にゆかりの人では

高村光太郎 井上ひさし 色川武大(阿佐田哲也) 今東光 瀬戸内寂聴 三浦哲郎(「忍ぶ川」「繭子ひとり」)  光瀬龍(「百億の昼と千億の夜」)     などなど。

私が一番知りたかった、岩手の文学を支え、盛り立てた鈴木彦次郎についても詳しく描かれているのが嬉しい。

盛岡文士劇の歴史、盛岡中学(盛岡一高)、一関一高から多くの文学者が生まれたこと、盛岡映画館通りで「ミステリー映画祭」が生まれたこと。

日本速記術の創始者・田鎖綱紀も盛岡出身。

「電筆将軍」

日本速記術の創始者・田鎖綱紀は安政元(1854)年,盛岡藩士の子として現在の盛岡市に生まれた。父が江戸江戸藩邸詰だったため、田鎖の養育は専ら上杉流軍学者の祖父に委ねられた。幼い田鎖は祖父の講義を傍聴して、「この話を聞いた通りに書き写せたら面白いのに」と思ったという。

明治2(1869)年、大学南校(東京大学の前身)に入学した田鎖は、明治5(1972)年には秋田の大葛金山に派遣され、米国人ロバート・カーライル工学博士の指導下で働き始めた。

ある日、カーライルに母国の妻から手紙が届く。手紙にはミミズがのたくったような奇妙な文字が書き連ねてあった。不審な顔をする田鎖に、これは人が喋った言葉をそのまま書き写す速記という技術だ、とカーライルは説明した。

速記に異常な興味を示した田鎖のため、カーライルは参考書を何冊も取り寄せてくれた。やがて米国式速記術をマスターした田鎖は、それを日本語に移し替えられないかと考えるようになる。

田鎖は弟子をたくさん育てたが、その中でも若林柑藏はなかなかの野心家だった。若林一派の名声を高めたのは、三遊亭圓朝の高座の語りを速記で文章化した「怪談牡丹灯籠」。(略)

明治23年(1890)年、公約通り第一回大日本帝國議会が開かれ、田鎖の弟子を含む34名の速記者が貴族院と衆議院に配属された。帝國議会は速記のお陰で、第一回から正確な議事録を残すことが出来たのである。(略)

明治29(1896)年、若林らかつての弟子たちの運動により、田鎖に終身年金三百円が下賜となる。文化功労者に与えられる年金の第一号だ。時の貴族院議長・伊藤博文もまた、電気の如く筆が早い速記術の親玉という意味を込め、田鎖に「電筆将軍」名を贈り功績を称えた。

エピソードは、どれもありきたりではなく、飽きることはない。

あっという間に595ページ読了。

岩手は「食料自給率」が100%を超える、豊かな県。

文学の「自給率」も、結構高い。

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