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「愛吟集」〜村の道ぶしん〜歓迎の歌

2017年
6月3日(土)
NHK朝ドラ「ひよっこ」では、「乙女寮」の最後に「見上げてごらん夜の星を」を全員でコーラスして愛子さんや和夫さんや乙女寮へ感謝の気持ちを捧げていました。

随所随所でコーラスが出てくるのが、「時代」を感じさせて暖かい気持ちになりました。彼女たち工員たちは「歌」にどんなにか助けられたことでしょう。
私が昨年まで所属していた合唱団でも「歌うと嫌なことが全部溶けるわね!」と先輩方がよくおっしゃってました。

今私は心の中で歌っています。

最近草むしりをしている時、30年ぶりにメロディが浮かんだのが、
「村の道ぶしん」。

玉川学園の「愛吟集」に載ってます。もう失くしたと思っていましたが、古い漫画(山岸凉子の)を探していたら出てきました!

Img_0190

私は第九が歌えるから玉川に入ったようなものなので、玉川の塾で朝に夕に歌えるのは嬉しかったです。

Img_0205

               ※クリックすると拡大します

            村の道ぶしん 

 葛原しげる 作詞/梁田貞作 作曲/岡本敏明 編曲

一、土をはこび 草を刈りて 

  われらは励む

  われらの村の道ぶしん

  村のために 国のために

  つくしたるわれらの年寄(としより)の

  歩み安かれと 朝な夕な

  われらは励む

  われらの村の道ぶしん

※エンヤラホイ ヤレホイ ヤレホイ

  エンヤラホイ ヤレホイ ヤレホイ

  エンヤラホイヤレホイ

二、力あわせ 心あわせ

  われらは励む

  われらの村の道ぶしん

  村のために 国のために

  つとめなんわれらの幼児(おさなご)の

  歩み安かれと 朝な夕な

  われらは励む

  われらの村の道ぶしん

※繰り返し

今改めて歌うと、メロディが軽快で、「エンヤラホーイ、ヤレホーイ」という掛け声も楽しい。草むしりや枝の剪定などの庭仕事にぴったりで、私の良い「労働歌」になりました。

歌詞の内容は「開拓」や「高度経済成長」なんて言葉が似合う、一昔前の感じですが。玉川では「労作」(掃除や草むしりなど)に向けて作られたのではないかしら?

次に愛吟集から、「歓迎の歌」を紹介しましょう。

塾にお客様がみえた時、夕食前に全員で歌いました。

この曲はメロディが「幸せなら手を叩こう」に前半そっくりなので、それから取ったのか?と思っていたら、違いました。もともとアメリカ唱歌にあった「歓迎の歌」という曲を岡本敏明さんが作詞、編曲したらしいです。

 

Img_0197_2

                ※クリックすると拡大します

            歓迎の歌

アメリカ唱歌/ 岡本敏明 作詞と編曲

うれしや われら ここに

新しき友をむかえ

むすぶ ともがき 心はおどる

How do you do?  山田さん(お客様の名前)

How do you do? do do

短いですが、シンプルで楽しい歌です。

お客様も感激したのではないでしょうか?

玉川の校歌から始まって数々の歌を作った岡本敏明先生について、全く知らなかったので、玉川学園のサイトから調べてみました。

http://www.tamagawa.jp/introduction/enkaku/history/detail_6075.html

(少々長い引用になります)

玉川の丘では、「歌に始まり、歌に終わる」といわれるほど、「音楽」が学校生活の一部としてとけこんでいる。このような音楽的環境の基盤は、本学園創立期より音楽教育に邁進した岡本 敏明(おかもと としあき)によって創り上げられた。
岡本敏明は、1907(明治40)年3月29日、宮崎市で生を受けた。父は同志社神学校で伝道に従事しており、そのため日本国中を2~3年程度の長さで転々とする幼少期を過ごした。母は教会での礼拝のオルガンを担当しつつ、牧師夫人として務めを果たし、多忙な毎日を送っていた。このような家庭環境もあってか、岡本は中学生の頃から、自ずと音楽学校への進学を志すようになった。その後、入学した東京高等音楽学院(現・国立音楽大学)の高等師範科では、「作曲の出来る教師」となるために研鑽に励み、1929(昭和4)年3月に卒業した。

岡本敏明と創立者小原國芳が初めて出会った場所は、1929(昭和4)年1月、成城学園の校長室だった。挨拶もそこそこに、小原と秘書と岡本は、開校前の玉川の丘に車で向かった。当時は成城学園から玉川学園まで、車で約2時間かかったという。小さな丘陵の一角で車を止め、丘をあがって行くと、小原は「君、岡本君だったね。先方の丘を見なさい。あの丘の上に教会堂が出来てパイプオルガンがはいるんだよ。シカゴのキンボール社からだ。君もやるんだろうね」「後ろの丘には大体育館と講堂ができるんだ…」と語りかけ、岡本をたいへん驚かせた。

創立当初の頃の玉川には、ピアノも音楽室もなく、今日と比べて必ずしも教育環境が十分でなかった。それでも岡本は、「子供たちが飛びついてうたえる歌、うたっている内に自然に合唱になる歌」を次々に作曲し、同時に子供たちに教えた。朝、昼、夕方の歌、歓迎の歌、別れの歌といった学校生活に密着して生まれた音楽は、数百曲以上ともいわれている。

ちなみに、よく知られている「蛙の合唱」は、玉川に滞在していたスイスのチンメルマン博士が本学園の生徒を指導する様子を聴いて、岡本が日本語訳をつくり、日本各地に広まったものである。岡本は「蛙の合唱」から輪唱のおもしろさに気づき、この曲も含めて何百曲もの輪唱曲を日本の小中学校に紹介した。

同様に「どじょっこふなっこ」も玉川から日本中の小中学校で歌われるようになった。この曲は、玉川学園の合唱団が、1936(昭和11)年の春に、秋田市を訪問した際の歓迎会のときに誕生したものである。訪問先のある先生が、詩吟を朗唱するように、「春になれば氷(すが)こもとけて、どじょっこだのふなっこだの、夜があけたとおもうべな」と、歌ったところ、岡本が瞬間的に興味を示し、その場で男声合唱用に採譜を始めたのだ。やがて会が終わる頃になると、今度は生徒たちが、混声三部の合唱で「どじょっこふなっこ」を先生方に披露した。会場内は大いに盛り上がったという。

「どじょっこふなっこ」は岩手の実家で、よく歌っていた大好きな曲なので、驚きました。

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                     岡本敏明先生

 

 

    

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