2017年10月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        

« 早池峰神社向かいの大和坊のお食事 | トップページ | 岩泉ヨーグルトは、濃い。 »

あんどん祭りの意味

2014年

8月31日(日)
いよいよ都会っ子は本日で夏休みが終わりです。
大迫町の小学生はお盆開けの18日くらいまでで夏休み終了なので、
8月いっぱい休める東京の子たちを羨んで、泣いたりしたものです。

在京大迫人会のHPの方には、6月の復興バスツアーの1日目の記事を載せましたので、ご覧下さい。

在京大迫人会HPhttp://www.zai-ohasama.net/

「特別企画 ふるさと復興支援ツアー」

お盆に帰省した時のつづきです。
13日は、お昼すぎにバスで家に帰り、お盆の料理のお手伝い。義姉が作った料理(煮しめ、天ぷら、ところてん)を葉っぱに載せるために、小さく切って、お菓子も添えます。お花も義姉が各お墓用に綺麗にわけた物を持って行きます。午後、桂林寺に車で行くと、ちょっとしたラッシュ。お墓の片隅に小さな火を焚いて、お線香に火をつけます。甥っ子たちが大きくなったので、火起こしとお線香に火をつけるのを担当してくれました。
 忙しくて、お墓の草取りをしていなかったらしく、義姉はちょっと不機嫌。お花を手向けて、お線香が分配されて、お墓1つ1つに手を合わせます。「この人は小さいうちに亡くなったんだよねぇ。」なんて、子どもがちゃんと御先祖の事を理解しているのが、嬉しい。
 拝んだ後はその場でお供えしたお菓子を一個ずつ食べます。それが習わし。そして、せっかくお供えした葉っぱに乗せたお料理は、すぐに片付けます。昔はお盆中ずっと置いておいたものですが、今はカラスがくるなど不衛生、とのことで、そのように変わりました。
 お墓で御先祖と対面したら、お楽しみの桂林寺へお邪魔します。
子どもの時は、これが楽しみでした。お寺の境内には色々教訓的な絵が飾られてありますが、その中でも「地獄絵」を見るのが楽しみでたまらなかったのです。
 「地獄絵」は、教育的な意味もあって、全国に広がったとかで、あの水木しげるさんも大好きだったようです。残念なことに、今の桂林寺には「地獄絵」は飾られていません。なぜでしょう?今どきの「残酷すぎるから」などの、変な配慮でしょうか?

 14日は午前中は、在京大迫人会の面々と待ち合わせして、在京大迫人会発足100周年に向けて、記念の歌碑を建てるために、地元石材店に向かいます。石の話を色々伺って楽しい。主な石は中国から買っているとか。どこもかしこも中国ですね。いい自然石が見つかるかどうかは「出会い」なそうで、いい石が見つかることを祈ります。

 大迫総合支所にも全員で伺い、歌碑を建てる場所の相談をしました。なんと、支所長はじめ、職員の方々が現地まで一緒に足を運んでくださった。ありがたいことです。

Photo_3

元山岳博物館の、道を挟んで向かいあたり。会長(ダンディーでしょう?)が真ん中に立っています。とてもいい場所。いい歌碑を建てなければ。

 6月にお世話になった花巻市総合文化財センターに寄って、「本物そっくり!粘土アート展」に驚き、バイパスから登ってすぐの駐車場の隅にある、飢饉の供養塔を見学しました。
Photo
天明の飢饉の供養塔。
側に「妙音(たえおと)」という碑文がありました。

丁度、地元の元商工会長の松坂さんがいらして、詳しく説明してくださった。

Photo_2 びっしり細かく書かれています。ちょっと大事なことが書かれているので、全文転載致します。(縦書きを横書きにしたので、読みずらいでしょうが)

妙音
 この供養塔は、天明の飢饉において餓死した人や 行き倒れとなり、無縁仏となっている人々の霊を弔うために建てたものである。
 天明年間の飢饉は、天明元年(1781年)から八年(1788年)まで毎年続き、その中でも多くの餓死者等を出し惨状のひどかったのは、天明三年から六年までの四年間であった。天明三年は、天明年間中最大の飢饉となった年で天明年間の飢饉はこの年の飢饉と称すると言われるほどである。
 飢饉による死者は、森嘉兵衛氏著「旧南部藩飢饉史の研究」によると、天明三年九月より四年六月の間が最も多く、南部藩人口三十万六千七十七人のうち、餓死者四万八百五十八人 病死者二万三千八百四十八人、計六万四千七百六人と人口の約二割が死亡したとある。大迫においても例外ではなく、到岸寺、妙琳寺、宗通寺、中興寺の四カ寺(桂林寺、浄円寺は火災のため資料なし)の過去帳によると、天明元年二十一人、二年二十三年、三年三十八人、四年二百十八人、五年二十九人、六年二十九人、七年三十人、八年二十二人と天明四年においては他の年の約八倍もの数となっている。前記した数は檀家として過去帳に載せられた人々の数であり、このほかにも他の土地から食物を求めさまよい歩き、この大迫で行き倒れとなった人々があったと思われる。
 お盆の行事として毎年「あんどん山車」が運行されているが、これは、今から約二百年前の江戸時代寛政年間に「伍八」という人により、天明の飢饉において餓死した人々の霊を弔うために始められたといわれている。
 山車は時代の流れと共に変わり今日に至っているが、その意義や趣旨は変わるべきものではない。今日観光的要素が強調され、本来の姿が薄れつつあるなかで、当青年の会は、「あんどん山車」を運行し、発祥の由来、歴史的背景等を訪ね、その意義、趣旨を後世に伝えていくことも我々青年の地域に根ざした活動であり、役割ではないかという考えに立ち、その一環としてこの供養塔を建てることとした。
 なお、この供養塔建立費は「あんどん山車」運行に対する町民各位のご寄付を充当した。
      昭和五十五年十一月十六日
                   大迫町 青年の会

長く引用しました。大迫町の「あんどん祭り」は、飢饉で亡くなった方々を供養するあんどんが進化したものなのです。今でも、あんどん山車の運行の最初には、飢饉で亡くなった方々の霊を思い、関係者が手を合わせていると聞きます。

そんなあんどん祭り。14日は同窓会で殆ど見られなかったので、16日のを載せます。
2014
若衆組。運行は午後4時30分から。
16日はあいにくの雨模様。
2014_2                             若衆組見返し。線がきれいです。

2014_3
下若組の見返し「常磐御前」。雨よけのシートが絵の雰囲気に合ってます。

2014_4                  川若組。仏様を丁寧に描いています。

2014_5
川若組見返し。蛇が迫力あります。
ここまでは、昼。あんどん祭りは何と言っても夜。

2014_6                                  川若組。先の仏様も立体的で迫力あります。

20147
下若組。ここ数年、下若組の山車は抜群にいいです。

2014_7                               下若組。見返し。雨はあがって、常磐御前もくっきり。

14日と16日の山車は各組とも違います。14日の山車は翌日壊されます。16日のも翌日にはなくなります。はかない命だからこそ、美しいのでしょうか。
あんどん祭りは、山車と太鼓と歌(音頭上げ)と踊り。そして夜店。

五感全部が刺激される、だからワクワクドキドキするんですね。
私は16日はずっと生ビール&かき氷&ジュース売りのお手伝い。このおかげで、町中の人と会えるから、一石二鳥。

在京大迫人会のHPには、「大迫音頭」の音もupされてます。(コーヒーブレイク)

Hiroshi MUKAIDAさんがYou Tubeにアップした、2011年のあんどん祭り
https://www.youtube.com/watch?v=-i49o3SPgac

2011年は、東日本大震災があったので、各組とも、力が入っていました。

ShiwabloさんがYou Tubeにアップした、2012年のあんどん祭り

https://www.youtube.com/watch?v=ghGS-VPBVxc

祭りの雰囲気がよく伝わります。最後に熊谷貞夫さん(6月のバスツアーでも、「音頭上げ」をご披露いただいた、名人です)の「小栗判官」の名調子が入っていて、お宝映像。

七折の滝は見られなかったけれど、いいお盆でした。

« 早池峰神社向かいの大和坊のお食事 | トップページ | 岩泉ヨーグルトは、濃い。 »

大迫」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1167966/57233601

この記事へのトラックバック一覧です: あんどん祭りの意味:

« 早池峰神社向かいの大和坊のお食事 | トップページ | 岩泉ヨーグルトは、濃い。 »